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京都地方裁判所 平成8年(タ)68号 判決 1996年10月31日

主文

一  原告が本籍大阪府泉南郡《番地略》亡乙山太郎の子であることを認知する。

二  訴訟費用は国庫の負担とする。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

主文と同旨

第二  事案の概要

一  本件の事案の概要

1 原告は、昭和一九年八月二七日、本籍京都市上京区《番地略》甲野花子(以下「花子」という。)の子として出生し、その旨の届け出がなされた。

2 本籍大阪府泉南郡《番地略》乙山太郎(以下「太郎」という。)は、昭和五三年一月三日に死亡した。

3 原告は、平成八年七月二日、原告が太郎の子であるとして、本件認知請求訴訟を提起した。

二  争点

1 原告が太郎の子であるか否か。

2 本件認知の訴えと出訴期間

第三  争点に対する判断

一  本件の経緯

《証拠略》を総合すると、以下の事実が認められる。

1 太郎と花子は、昭和一〇年代前半頃、結婚式を挙げ、花子の実家(以下「花子方」という。)で同居生活を開始した。しかしながら、太郎及び花子にはいずれも妹しかなく、太郎はいわゆる乙山家、花子はいわゆる甲野家を継ぐべき地位にあり、婚姻届出をして一方が他方の戸籍に入ることができない状況にあったため、婚姻届出をしなかった。その後も、太郎と花子は、実質夫婦として生活し、冠婚葬祭にも一緒に出席していた。

そして、花子は、昭和一九年八月二七日、原告を出産した。

2 太郎の妹である丙川松子は、昭和二〇年頃、一時花子方に身を寄せたが、当時、太郎は、花子及び原告並びに花子の妹竹子と生活を共にしていた。丙川松子は、その頃、太郎と花子が婚姻届出をしていないことを知り、太郎及び花子に対し婚姻届出をするように勧めたが、太郎の態度は明確ではなく、花子及び竹子は、婚姻届出をすることに反対し、丙川松子との間でしばしば口論となった。その後、太郎は、丙川松子と花子及び竹子の折合いが悪かったため、花子方を出た。

3 原告は、花子と共に生活していたが、花子から父は既に死亡した旨聞かされていた。しかし、原告は、高校入学時に戸籍謄本を見て初めて自己の父の欄が空白になっていることを知った。そこで、原告は、花子に対し、右事情を問い質したが、花子は、事情を明らかにすると原告を乙山家に取られてしまうと思い込み、父母の家の事情により婚姻届出をしなかったこと以外は泣き叫ぶばかりで答えようとしなかった。また、原告は、その後も、花子に対し、何度となく父のことを聞き出そうとしたが、花子は、右同様泣き叫ぶばかりであったため、原告は、花子を悲しませることができず、それ以上何ら聞き出せなかった。

原告は、その後相当期間が経過して、花子から父の氏名が乙山太郎であることを聞き出すことができたが、太郎に関する物がすべて処分されていたため、その本籍及び所在は判明しなかった。

4 他方、太郎は、昭和五三年一月三日、大阪府枚方市で死亡し(同月四日届出、同月七日除籍)、その際、丙川松子らは、原告に対し、太郎の死亡を伝えるかどうか思案したが、結局、今更伝えるのは相当ではない旨判断し、結局、連絡を取らなかった。

5 原告は、平成三年頃、竹子から乙山家の墓が大阪の泉南地方にあった旨聞き出すことができたため、電話帳で大阪府泉南市、泉佐野市及び和泉市に居住する「乙山」という家を捜し出し電話をしたが、該当者はなかった。さらに、原告は、同七年四月から五月にかけて、弁護士を通じ、大阪府泉佐野市、泉大津市、泉南市及び和泉市並びに花子・原告が住んでいたことのある京都市上京区に居住する「乙山太郎」の戸籍を調査したが、太郎の所在は判明しなかった。

6 原告は、その後、太郎と花子の婚姻に丁原松夫が関与していたということ及び右丁原松夫の子である丁原二郎の所在が判明したため、丁原二郎方を訪ねたところ、太郎が以前戊田という会社に勤務していたことがあり、戊田が現在も存在することを知った。

そこで、原告は、戊田の代表者である甲田竹夫に電話をかけたところ、同人の妻から乙野梅夫に聞いたら太郎のことが分かるかもしれない旨聞き出すことができ、そして、右乙野梅夫に電話を掛けた結果、丙川松子の子である丙川春子の所在を知ることができた。そして、原告は、平成八年三月頃、丙川春子から太郎が既に死亡していることを初めて知った。

以上のとおり認められる。

二  争点1(原告が太郎の子であるか否か)

右一の認定事実によると、原告が太郎の子であると認められる。

三  争点2(本件認知の訴えと出訴期間)

本件の事案の概要2及び3によると、原告は、太郎が死亡してから一八年以上経過した後に本件認知の訴えを提起したことが認められる。

ところで、民法七八七条但書が、認知の訴えの出訴期間を父又は母の死亡の日から三年以内と定めているのは、父又は母の死亡も長期にわたって身分関係を不安定な状態におくことによって身分関係に伴う法的安定性を害することを避ける趣旨であると解され、右趣旨からすると、出訴期間は、何らかの客観的な時点から起算すべきことになり、前記一の認定のとおり、太郎は、昭和五三年一月三日死亡し、同月四日に右死亡の届出がなされ、同月七日に除籍されたものであるから、太郎の死亡は、その頃、客観的に明らかになったと認められる。

しかしながら、前記一の認定のとおり、原告は、父が「乙山太郎」という氏名であることを知っていたものの(《証拠略》によると、原告が父の氏名が「乙山太郎」であることを知ったのは十数年前である。)、平成七年四月から五月にかけて、弁護士を通じて大阪府南部等に居住する「乙山太郎」の戸籍調査をしていることからしても、ただ単に太郎の所在あるいは生死が明らかではなかったのではなく、自己の父である太郎を本籍等により特定することさえできなかったものである。したがって、原告としては、「乙山太郎」を特定できていない以上、従前、太郎が所在不明であるとして公示送達の方法により認知の訴えを提起したり、あるいは、失踪宣告を得た上で検察官を相手方として死後認知の訴えを提起することもできなかったことになる。

確かに、原告が「乙山太郎」を特定できなかったのは、前記一の認定のとおり、母花子が原告に対し太郎のことを明らかにしなかったためであり、太郎の死亡が昭和五三年に客観的に明らかになっている以上、前記出訴期間が規定されている趣旨からして、その判断に当たっては、右のような個別の事情を考慮することは相当ではないとも考えられる。しかしながら、原告にとっては、前記一の認定のとおり、太郎を特定しその死亡を知ったのは平成八年三月頃であり、それ以前においては他に認知の訴えを提起する手段がなく、且つ、右提起できなかった事情を全て原告の責に帰すべきものであるとするのも原告にとって酷に過ぎると解される。

本件においては、右事情に加えて、太郎の親戚である丙川春子、丙山夏子及び乙野梅夫も本件認知が認められることを望んでおり、且つ、太郎は、死亡時に生活保護を受けており特に財産を有していなかったこと、原告が本件認知の訴えを提起した理由は、自己の娘の婚姻等に際して、原告の父が戸籍上空欄になっていることにより不利益を受けることがないようにとの親心によるものであること等の事情を総合勘案するならば、本件認知の訴えの出訴期間は、原告が太郎を特定しその死亡を知った平成八年三月頃から起算すべきであると解するのが相当であり、このように解したとしても、本件に限っては、右事情に鑑みるならば、身分関係の法的安定性を害するまではいえず、よって、本件認知の訴えは適法である。

四  以上の次第で、原告の請求は理由がある。

(裁判官 橋本真一)

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